誰かの言葉や態度を真正面から受け止め、怒ったりなじったり、あるいは落ち込んだりふてくされたりすることの多い娘に対して、以前、わたしがよく言っていた言葉がある。
「相手のことは相手のことで、あなたには関係のないこと。自分の問題としてとらえちゃいけない」
「言いたい人には言わせておけばいい。相手を変えることはできない。自分の受け止め方を変えよう」
「そういうことを言うのは、相手自身の問題。相手が弱いからいうのであって、あなたとは何の関係もない」
などなど。
「振り回されるな」「巻き込まれるな」「わかってもらおうとするな」とも、よく言っていたし、今でもつい口をついて出てくる。
でもね。これ、逆を返せば、全部、自分への言葉でもあるんだよね。
娘が怒りを爆発させると「どうにかせねば」と、自分を鼓舞し、時には右往左往しつつ向き合ってしまうわたし。どう考えたって、完全に巻き込まれているのだ。
こういうとき、どうしたら冷静に対処できるようになるのだろう。娘が感情をコントロールできるようになることと、わたしが何があっても冷静でいることは、お互いの課題なのかもしれない。
BPDやASD(きっとHSPも?)は、脳の機能の問題ともいわれている。脳の働き方を多数派と少数派に分けることができるなら、おそらく少数派のほうに属してしまうのかもしれない。
考えてみれば、視覚、聴覚、もののとらえ方、言葉の把握のしかた、感情のやり取りなど、脳はさまざまなことに関与しているけれど、誰もが同じじゃないんだよね。
わたしたちは、自分の感覚しかわからないし、自分の感じ方しかわからないし、とりあえずそれを基準にして「ほかの人もそうだろう」と考えるけれど、外見が人それぞれで同じ人がふたりといないように、脳だって内臓だって、人それぞれなのかもしれない。外見は目に見えるからわかりやすいけれど、脳や内臓なんて、目には見えないもん。
ただ、脳の機能の違いという考え方は、わたしにとっては、ある種の救いでもあった。「親のわたしにできるのだから、子のあなたにもできる」と、かつては思っていたけれど。そうじゃないんだってことを納得するきっかけになったというか。
人それぞれ……とはよく言うけれど、ホント、人それぞれなんだよね。それは、親子であっても。まったく別の人格なんだよね。。。そこね。けっこう思い違いしやすいところかもしれない。
もうひとつの救いは、脳の機能に由来するなら、改善の余地はあるんじゃないかと思えたこと。
体の仕組みや脳の構造なんて、小学生か中学生レベルの理科の知識しかないけれど、人体に備わっている不思議な仕組みを思えば、脳だって、その人なりに変わるはず。
すぐには理解できなくても、自分とは違うモノの見方があり、考え方があり、世界があることを知る…ことが何かしらのかたちで脳を刺激すれば、たとえちょっとずつでも変わっていくんじゃないかって。なんの根拠もないけど、楽観的に思っていたりもする。
なんてね。
こういうふうに考えられるときというのは、娘が落ち着いているときなのだ。怒り爆発の渦中にいるときは、こうは考えられない。でもだから、「こういうふうに考えている自分もいるんだ」ってことを書き留めておくことは意義あるんじゃないかなと、思ってる。
かつて、希死念慮が強かった娘に向き合いながら「わたしが対応を間違えたら、娘は命をたってしまうかもしれない」という恐怖につきまとわれていたことも事実でさ。そのころから比べたら、ずいぶん変わった。
明日は明日の風が吹く。
どんと大地に足をふんばり、ゆらがない自分でいたい。きっとそれが、娘にとっての安心につながるのかもしれない。
とりとめのないひとり言。