たぬきづき

月夜野たぬこ(書き人)の日々の気づきやら思いやら

これまでを振り返ってみる その2

都内にて撮影した空

大学生になった娘。
わたしは、小学校、中学校、そして高校の同級生とかかわることのない大学は、新しい人間関係をつくるチャンスだと思っていた。新しい世界を築けると、思っていた。もしかしたら娘も、そう思っていたかもしれない。
けれど、全国各地から年齢も育った環境もさまざまな人間が集まる大学も、娘にとってはなじみにくい世界だったようだ。
それは、娘にBPDやASDの傾向があると気づいた今(正確には、娘が大学を卒業する前後)だからわかることで、当時のわたしは、うまく立ち回れない娘に、イライラしたりしていたのだ。。。
大学の1年次は、朝から晩まで必修の授業も多い。しかも、通学には時間がかかった。朝から晩まで、慣れない環境の中で過ごし、家に帰ってきたら帰ってきたで、勝手に大学生活に期待して、うまくいかないことがあればイライラした母親がいたのでは、気が休まることもなかっただろう……もうこればかりは、本当に「ごめんなさい」と言うしかない。

ちなみに、家庭環境も決してよいとは言えなかった。「悪かった」というほうが正確だ。夫婦間の会話はほぼなく、娘が中学生になるころからは、家庭内別居状態だった。このことは、機会があれば掘り下げたにのだけれど、わたし自身は家庭内別居がよい状態だとは思っていなかったし、早く状況を打開しなければならないとも思っていた。でも、それはわたしだけのことで、相手(結局、離婚したので元夫)は、何も考えていなかった。そういう人だった。
結局、家庭内別居10年ほど、さらに変則的な別居を10年ほど続けた後に、わたしから切り出す形で離婚となった。これはこれで、いろいろ大変だった。そんな中、いちばん理解を示してくれ、力になってくれたのは、娘だった。このことは、感謝しかない。だから、娘への感謝もこめて、いつか、ちゃんと書かなきゃね。

話を戻すと、精神的な負担を重ねていた娘の体調の悪さをわたしが明らかなものとして認識したのは、成人式のときだった。
地元の成人式は、地元の同級生が集まる。小学校、中学校とつらい思いをしてきた娘。「行くことないよ、行かなくたっていいんだよ」と、わたしは思っていたし、娘にも伝えていた。
しかし、娘は行くことを選んだ。その気持ちの奥底に何があったのかを知ることはできないけれど、娘が行くというものを否定的な言葉で止めることはできなかった。みんな、大人になっているだろうか。少しは話に花を咲かせて帰ってくるのだろうか。思いながら、当時の夫が運転する車に乗って会場へ向かう娘を送り出した。かなりの雪が降る日だった。

お迎えには、わたしも同乗していった。どうしてそうなったのかは覚えていない。もしかしたら、娘からSOSがきたのかもしれない。
帰宅してからのことは、なんとなく覚えている。ぐったりとして、寝込んでしまったのだ。。。会場では、誰とも会話をかわすことがなかったようだった。
慣れない着物をきて、大勢が楽しそうに集う中、ひとりぼっちでの式典は、つらかっただろうな…。娘が味わった気持ちがどんなものだったかは、わたしは想像するしかないのだけれど。

そこからの記憶は、いろいろと前後する。

娘が「このままでは、誰かを傷つけてしまいそうだから、精神科に連れていってほしい」と言い出したこと。
突然のことに驚きながら、かかれそうな病院を探し、受診したこと。
それでも、朝起きられない、学校に行けない、無気力などの症状が強くなり、わたし自身がどうすればよいのかわからなくなってしまったこと。
父を通じて大学病院に紹介状をとってもらい、精神科に通院するようになったこと。
定期試験が受けられず、レポートの提出が間に合わず、休学や退学も視野に入ってきたこと。
大学で縁ができた人とも、次々につながりを断ってしまったこと。

それでもどうにか大学は休学せずに卒業し、就職もできた。
でも……精神科への通院は続いていたし、本人の性格が変わったわけでもないので、新たな職場の人間関係でも苦労することとなった。このときは、BPD、ASD傾向がありそうなことは、わたし自身は、認識していた。
とはいえ、精神科の先生から診断がおりたわけでもなく(診断がおりるほど、顕著な症状ではなかったらしい)、どのように対処したらよいのかもわからずにもがいていた。人からみたら、過保護な部分も多かっただろうな。。。

結局、娘は入社早々に「適応障害」の診断で休職し、その翌年には退職している。それからしばらくして、精神科への通院も終わりとなった。これは、勝手にやめたのではなく、主治医の判断によるものだ。

それが、今から7~8年前のこと。
その後、さらなる嵐がやってきたんだった。(つづく)