たぬきづき

月夜野たぬこ(書き人)の日々の気づきやら思いやら

これまでを振り返ってみる その3

ベランダからの夕空

兆候は、娘が大学を卒業する前からあった。3年生のころだっただろうか。
突然、わたしへの態度が変わった。話かけても無視をする、挨拶をしない、「食事も別にする」と言い出した。わたしにとっては、ワケのわからないことで、かなり動揺したことを覚えている。理由を尋ねても、答えは返ってこなかった。

あのとき、どう過ごしていたんだったろう。
「口はきかなくてもいいから、必要なことだけはちゃんと話そう。同じ屋根の下で暮らしているのだから、挨拶だけはしよう」そんなふうに伝えた記憶がある。

「食事は、一緒にしたくないなら別々でいい」ということで、しばらくは別々に食べていた。でも、たぶんそれも、娘にとっては面倒だったのかもしれない。気づいたら、一緒に食事をするようになっていた。

ちなみにこのときは、元夫が同じ屋根の下にいたけれど、元夫との食事は別だったなあ……。そんなふうに振り返ると、本当に崩壊した家庭だったんだなあと、思う……。
わたしは、実家も家族というか家庭としては不全だったから、「結婚したら、温かい家庭を築くんだ」なんて思っていたけれど、ひとつもできなかった。

話を戻すと、前の記事にも書いたように、精神的な不調を抱えながら、娘は大学を卒業し、就職した。しかし、わたしへの反発は、止んだわけではない。その反発が目に見えて爆発するようになったのは、最初に勤めた会社を辞めて、新たな職場に移ったころだっただろうか。


「なんで、生んだんだ。生まれてこなければよかった。おまえのせいで、自分の人生はめちゃめちゃだ。死んでやる」

 

そんな罵声をわたしに浴びせながら、感情を爆発させるようになった。常に「イライラする」と口にし、感情のコントロールがきかなくなった。部屋にあるものを投げつけ、壁や床をドンドンと叩き、自死するようなそぶりも、何度も見せた。そんな日が、続くようになった。

ただ、そういう姿を見せるのは、わたしの前だけだった。外では、普通の子だったし、どちらかというとおとなしい子だった。だから…なのか、そのような娘の変化を話しても「どこにでもあることよ」ととらえられてしまい、わたしにとっては何の解決にもならなかった。かえって「話さないほうがよいな」という気持ちになった。元夫にも、一度は相談はした気がする。「めんどくせぇ野郎だな(←娘のこと)」いう言葉を覚えているので。何の相談相手にもならない人だった。

一方で、仕事に行こうとしても起き上がれない、動悸がするというような身体的症状も、娘にはあらわれていた。

娘の変化に、わたしはどう対応したらよいのか、まるでわからなかった。なだめてみたり、時には取っ組み合ってみたり、本を読んでみたり、お寺さんに行ってみたり、母子関係のカウンセリングを受けてみたり、毎日が試行錯誤だった。
できるだけ平静を装いながらも、「わたしが一歩対応をまちがえたら、娘はこの世からいなくなってしまうのではないか」という不安をいつも胸に抱えるようになった。娘の感情や態度に敏感になり、精神的にも追い詰められていった。

そのころには、娘にASDやBPDの傾向があることも把握し(BPDについては、本人に言われて知った)、必死に対処法を探した。けれど、出てくるのは「こういう人とは距離を置きましょう」というような内容のアドバイスが多く、当事者やその家族に寄り添うような意見や提言は、そのときは見つけることができなかった。

しばらくして、わたしは突発性難聴を患う。同時期に、不眠症にもなった。どちらも、はっきりした原因はわからないが「ストレスだろう」といわれた。
渦中にいると自覚できない。でも、このころのストレスは、相当だったと思う。体重も、ずいぶん減った。不眠で通っていた漢方のお医者さんと

「体重、減ってますね」
「はい。でもなんとなくの原因はわかっているので。解決までには少し時間がかかりそうですが」

という会話をしたことを覚えている。
娘が精神的に荒れているとか、言えなかったな、このとき。。。

とりあえず通院して難聴と不眠は解消したものの、娘との関係は相変わらずだった。そして、わたしとしては八方ふさがりのような状態だった。どうすればその状況を打破できるのか、わたしに何ができるのか、まったくわからなかった。このままでは、自分がダウンすると感じていた。

そんなとき、BPDと診断された方をご家族に持ち、対処してきたという方の発信に行き着いた。記録を読むと、まったくわたしと同じような経験をされている。その経験から学んだことを伝えるという活動をしている方だった。個人的なカウンセリングも受けているとのことだったので、藁にもすがる思いで、その方に会いに行った。

そのときのアドバイスは、忘れられない。今思えば……なのだが、BPDという診断を受けた人に対処するときの、基本中の基本を教えてくれた。これは、本当に大事なことなのだ。


ただ、そのときは、言葉としては理解できるものの、具体的な行動に落とし込むことが難しいと感じた。ケース・バイ・ケースで対処するしかないので、具体的な行動は自分で模索するしかないとはわかりつつ、「じゃあ、どうしたらよいのだろう」と、悩んだことも事実だ。ただ、それまでの娘に対するわたしの対応が間違っていたことだけは、確かだった。

だから「学ぼう」と、思った。
その方が主催する、BPD家族の勉強会があったので、参加してみようと。しかし、その時点では、席に空きがなかった。が、そのツテで探してみたら、別の勉強会に行き着いた。自宅からは遠い場所だったが、そんなことは言っていられなかった。

「ここに通って、道を見つけていくしかない」
すがる思いで申し込んだのが、2018年の暮れ、2019年の1月から、月に一度のペースで勉強会に通うようになった。これは、今も継続している。

はじめて参加したとき。娘の状況を聞いてくださった先輩家族が「お嬢さま、何歳?」と声をかけてくれた。
「26歳です」と答えると、「うちもまったく同じ。ううん、うちのほうが、もっとすごいかもしれない。年齢も30半ばなのよ」と。
涙があふれそうになった。

参加しているのは、誰もが家族との関係に困難を抱え、それでも道を探ろうとしている人たちだ。細かい状況は違えど、共通する空気がある。

この場では、自分の身に起きている状況を隠さずに話せた。それだけでも大きな救いになることを、このときにはじめて知った。(つづく)