たぬきづき

月夜野たぬこ(書き人)の日々の気づきやら思いやら

これまでを振り返ってみる その4 +突然の爆発

龍に見えた雲

感情調節に難を持つ家族のための勉強会。とにかく、娘への対処法や、いい関係を築く具体策が知りたくて参加を決めたものの…そこでわたしを救ってくれたのは、「方法」ではなく、同じ境遇を語れる「仲間」の存在だった。

お互いの連絡先も知らず、月に一度顔を合わせるだけ。それでも、そこには理解しあえる仲間がいた。誰に話してもわかってもらえないことが、そこではわかってもらえた。自分事として、とらえてくれた。わたしも、ほかの方の話を、自分ごととして聞くことができた。
細かい状況も年齢もばらばら。でも、その場の空気は温かくて、みんな必死に道を探して集っていて、その空気にわたしは救われた。

わたしは、月に一度の集まりを楽しみに通うようになり、気づけば5年がたっている。

5年の間に、参加しなくなった仲間もいれば、新たに加わった仲間もいる。それぞれの都合もあるので、毎回、同じメンバーが顔をそろえるわけでもない。とりとめのない話で終始することもある。

それでも…不思議なのは、一進一退しながらも、どのご家族も悪化はしていないことだ。時として揺り戻しのようなことはあっても、長い目で振り返れば、どのご家族も、よりよい方向へと進んでいる。

娘も…だ。
今でも感情が荒れることはあるし、BPDやASDの傾向が抜けたわけではないけれど、穏やかな時間が増えた。毎日、嵐のような日々を送っていたことを思えば、それで十分なのかもしれない。
あとは、突然の爆発に、わたしはもちろん、娘自身が上手に対処できるようになれば、きっともっと苦しまずに生きていけるはず…という思いを込めて、昨日の爆発について書き留めてみる。

**********

昨晩、娘が、大切な人にプレゼントするための日本酒を買って帰ってきた。機嫌よく見せてくれたので
「おー、純米酒だね」
と、応じたら
「うん。吟醸酒より、純米酒のほうがいいんだよね?」
と、返ってきた。

前に、娘と一緒に日本酒を買いに行ったことがある。そのときに、原材料や精米歩合の話をして「原材料が米と米麹で、精米歩合の数字の低い大吟醸吟醸なら、ランクとしては高いと考えていいんじゃないかな」という話をしたことがある。その記憶は残っていたのだけれど、どこかで「買うなら純米酒」と置き換わってしまったらしかった。

「あ、ランクでいったら、吟醸が上じゃないかな」

そう答えたとたんに、娘の顔色が変わった。
「え、わたし、まちがえたの?」
「まちがえたっていうか、ランクの話をしたら、純米酒より吟醸で、そのうえが大吟醸だと思うんだけど…」

それがきっかけで、娘は爆発した。自分に対する怒りだ。

「なんでわたしはこう、バカなのっ! いいなと思ったお酒があって、それは吟醸酒だったけど、純米酒のほうがいいと思って、こっちを選んだのにっ。なんでこう、頭が悪いのっ! 買い物も満足にできないなんて、もういやだっ!!!!!!」

大きな声で叫ぶ。その声があまりにも大きかったので

「大きな声を出さないでよ」と、言ってしまったわたし。。。(←これは、対応としては失敗。頭ではわかっていても、自分自身も感情がついていかなかった。反省)

「今日は、体調が悪いって、昼にもメールしたでしょっ!!!!!!」と、さらに大きな怒鳴り声が返ってきた。(←ここで、私は自分の対応の失敗に気づき、娘の感情に巻き込まれないように気をつけた。ただ、それとて、よかったのかどうかはわからない。よかったのは、巻き込まれなかったこと…ということで)。

ちょうど、「ごはんにしようか」という夕飯前の出来事。
わたしはわたしなりに、娘の体調のことを考えて、食事の用意をしていた。それは、娘に頼まれたことではなく、わたしが勝手にしたことだけれど…。テーブルに並べた食事を見て、なんだか悲しくなって、食欲もすっかりうせてしまった。

娘は「満足に買い物もできないバカだっ」と、自分自身に盛んに怒りを向けている。何も答えず聞き流していたものの、埒があかないので、声をかけてみた。

「そのお酒、おかあさんが買い取るよ」
「うるさいっ」
「じゃあ、買いたかったやつを買ってきたらどう?」
「そんなお金、ないよっ!!!!!!」(小瓶なので、1000円もしないのだが)
「ごはん、どうする? もう少し落ち着いてからにする?」
「食べるって、さっき言ったでしょっ!!!!!」

このときの自分の気持ちを表現すると「どうして、こうなってしまうんだろう」ということに尽きる気がする。でもでも、このとき、わたしがすべきだったのは、思い違いをして買ってしまった娘の心に寄り添うことなのだ…ということが、こうしてあらためて振り返って書いているとわかるのだけれど、その場ではうまく出てこない。

しばらくすると、娘も気持ちが落ち着いてきた。
「また、荒れてしまって、ごめんなさい」という言葉も出た。
「まだお店があいているから、お酒、買いなおしに行く?」と提案したら「行く」というので、急いで夕食を終えて、一緒に出かけた。

後で娘いわく「あんなふうに、怒らなくてもよかったのに…って、今は思う」。

うん。
「まちがえちゃった、てへ」という人もいるだろうし、「今回は、このお酒でいいや」という人もいるだろうし、「買いなおしてくるわ」でもいいだろうし、まちがえた自分に怒りを向けなくても、対処の方法は、いろいろある。

だけれど、地雷のように瞬間的に爆発してしまう感情。ミスやまちがいは「許されない」という本人の中にある価値観…のようなもの。実際、娘は、ほかの人のミスやまちがいにも厳しいし、怒りとなる。

本人になりに対処しようとしているものの、難しい面がある。わたしも、心の準備があればそれなりの対処ができるようにはなってきたとは思うのだけれど、いきなり直面すると、心がついていかず、感情的に巻き込まれる。

でもでもでも。
昨日、巻き込まれそうになって踏みとどまれたのは、直前の家族会で学んだ「マインドフルネス」のことを思い出したからだ。
「今こそ、ここでマインドフルだ!」と、思えた。
出来はどうあれ、今までは思えずに娘の感情に巻き込まれ、疲弊していたのだから、それを思えば進歩じゃないかっ!

娘も大丈夫だっ!
いつも言い聞かせているじゃないか「娘を信じよう!」って。

うん。大丈夫、大丈夫。
一緒に、がんばろ。わが娘。

これまでを振り返ってみる その4 +突然の爆発

龍に見えた雲

感情調節に難を持つ家族のための勉強会。とにかく、娘への対処法や、いい関係を築く具体策が知りたくて参加を決めたものの…そこでわたしを救ってくれたのは、「方法」ではなく、同じ境遇を語れる「仲間」の存在だった。

お互いの連絡先も知らず、月に一度顔を合わせるだけ。それでも、そこには理解しあえる仲間がいた。誰に話してもわかってもらえないことが、そこではわかってもらえた。自分事として、とらえてくれた。わたしも、ほかの方の話を、自分ごととして聞くことができた。
細かい状況も年齢もばらばら。でも、その場の空気は温かくて、みんな必死に道を探して集っていて、その空気にわたしは救われた。

わたしは、月に一度の集まりを楽しみに通うようになり、気づけば5年がたっている。

5年の間に、参加しなくなった仲間もいれば、新たに加わった仲間もいる。それぞれの都合もあるので、毎回、同じメンバーが顔をそろえるわけでもない。とりとめのない話で終始することもある。

それでも…不思議なのは、一進一退しながらも、どのご家族も悪化はしていないことだ。時として揺り戻しのようなことはあっても、長い目で振り返れば、どのご家族も、よりよい方向へと進んでいる。

娘も…だ。
今でも感情が荒れることはあるし、BPDやASDの傾向が抜けたわけではないけれど、穏やかな時間が増えた。毎日、嵐のような日々を送っていたことを思えば、それで十分なのかもしれない。
あとは、突然の爆発に、わたしはもちろん、娘自身が上手に対処できるようになれば、きっともっと苦しまずに生きていけるはず…という思いを込めて、昨日の爆発について書き留めてみる。

**********

昨晩、娘が、大切な人にプレゼントするための日本酒を買って帰ってきた。機嫌よく見せてくれたので
「おー、純米酒だね」
と、応じたら
「うん。吟醸酒より、純米酒のほうがいいんだよね?」
と、返ってきた。

前に、娘と一緒に日本酒を買いに行ったことがある。そのときに、原材料や精米歩合の話をして「原材料が米と米麹で、精米歩合の数字の低い大吟醸吟醸なら、ランクとしては高いと考えていいんじゃないかな」という話をしたことがある。その記憶は残っていたのだけれど、どこかで「買うなら純米酒」と置き換わってしまったらしかった。

「あ、ランクでいったら、吟醸が上じゃないかな」

そう答えたとたんに、娘の顔色が変わった。
「え、わたし、まちがえたの?」
「まちがえたっていうか、ランクの話をしたら、純米酒より吟醸で、そのうえが大吟醸だと思うんだけど…」

それがきっかけで、娘は爆発した。自分に対する怒りだ。

「なんでわたしはこう、バカなのっ! いいなと思ったお酒があって、それは吟醸酒だったけど、純米酒のほうがいいと思って、こっちを選んだのにっ。なんでこう、頭が悪いのっ! 買い物も満足にできないなんて、もういやだっ!!!!!!」

大きな声で叫ぶ。その声があまりにも大きかったので

「大きな声を出さないでよ」と、言ってしまったわたし。。。(←これは、対応としては失敗。頭ではわかっていても、自分自身も感情がついていかなかった。反省)

「今日は、体調が悪いって、昼にもメールしたでしょっ!!!!!!」と、さらに大きな怒鳴り声が返ってきた。(←ここで、私は自分の対応の失敗に気づき、娘の感情に巻き込まれないように気をつけた。ただ、それとて、よかったのかどうかはわからない。よ。よかったのは、巻き込まれなかったこと…ということで)。

ちょうど、「ごはんにしようか」という夕飯前の出来事。
わたしはわたしなりに、娘の体調のことを考えて、食事の用意をしていた。それは、娘に頼まれたことではなく、わたしが勝手にしたことだけれど…。テーブルに並べた食事を見て、なんだか悲しくなって、食欲もすっかりうせてしまった。

娘は「満足に買い物もできないバカだっ」と、自分自身に盛んに怒りを向けている。何も答えず聞き流していたものの、埒があかないので、声をかけてみた。

「そのお酒、おかあさんが買い取るよ」
「うるさいっ」
「じゃあ、買いたかったやつを買ってきたらどう?」
「そんなお金、ないよっ!!!!!!」(小瓶なので、1000円もしないのだが)
「ごはん、どうする? もう少し落ち着いてからにする?」
「食べるって、さっき言ったでしょっ!!!!!」

このときの自分の気持ちを表現すると「どうして、こうなってしまうんだろう」ということに尽きる気がする。でもでも、このとき、わたしがすべきだったのは、思い違いをして買ってしまった娘の心に寄り添うことなのだ…ということが、こうしてあらためて振り返って書いているとわかるのだけれど、その場ではうまく出てこない。

しばらくすると、娘も気持ちが落ち着いてきた。
「また、荒れてしまって、ごめんなさい」という言葉も出た。
「まだお店があいているから、お酒、買いなおしに行く?」と提案したら「行く」というので、急いで夕食を終えて、一緒に出かけた。

後で娘いわく「あんなふうに、怒らなくてもよかったのに…って、今は思う」。

うん。
「まちがえちゃった、てへ」という人もいるだろうし、「今回は、このお酒でいいや」という人もいるだろうし、「買いなおしてくるわ」でもいいだろうし、まちがえた自分に怒りを向けなくても、対処の方法は、いろいろある。

だけれど、地雷のように瞬間的に爆発してしまう感情。ミスやまちがいは「許されない」という本人の中にある価値観…のようなもの。実際、娘は、ほかの人のミスやまちがいにも厳しいし、怒りとなる。

本人になりに対処しようとしているものの、難しい面がある。わたしも、心の準備があればそれなりの対処ができるようにはなってきたとは思うのだけれど、いきなり直面すると、心がついていかず、感情的に巻き込まれる。

でもでもでも。
昨日、巻き込まれそうになって踏みとどまれたのは、直前の家族会で学んだ「マインドフルネス」のことを思い出したからだ。
「今こそ、ここでマインドフルだ!」と、思えた。
出来はどうあれ、今までは思えずに娘の感情に巻き込まれ、疲弊していたのだから、それを思えば進歩じゃないかっ!

娘も大丈夫だっ!
いつも言い聞かせているじゃないか「娘を信じよう!」って。

うん。大丈夫、大丈夫。
一緒に、がんばろ。わが娘。

これまでを振り返ってみる その3

ベランダからの夕空

兆候は、娘が大学を卒業する前からあった。3年生のころだっただろうか。
突然、わたしへの態度が変わった。話かけても無視をする、挨拶をしない、「食事も別にする」と言い出した。わたしにとっては、ワケのわからないことで、かなり動揺したことを覚えている。理由を尋ねても、答えは返ってこなかった。

あのとき、どう過ごしていたんだったろう。
「口はきかなくてもいいから、必要なことだけはちゃんと話そう。同じ屋根の下で暮らしているのだから、挨拶だけはしよう」そんなふうに伝えた記憶がある。

「食事は、一緒にしたくないなら別々でいい」ということで、しばらくは別々に食べていた。でも、たぶんそれも、娘にとっては面倒だったのかもしれない。気づいたら、一緒に食事をするようになっていた。

ちなみにこのときは、元夫が同じ屋根の下にいたけれど、元夫との食事は別だったなあ……。そんなふうに振り返ると、本当に崩壊した家庭だったんだなあと、思う……。
わたしは、実家も家族というか家庭としては不全だったから、「結婚したら、温かい家庭を築くんだ」なんて思っていたけれど、ひとつもできなかった。

話を戻すと、前の記事にも書いたように、精神的な不調を抱えながら、娘は大学を卒業し、就職した。しかし、わたしへの反発は、止んだわけではない。その反発が目に見えて爆発するようになったのは、最初に勤めた会社を辞めて、新たな職場に移ったころだっただろうか。


「なんで、生んだんだ。生まれてこなければよかった。おまえのせいで、自分の人生はめちゃめちゃだ。死んでやる」

 

そんな罵声をわたしに浴びせながら、感情を爆発させるようになった。常に「イライラする」と口にし、感情のコントロールがきかなくなった。部屋にあるものを投げつけ、壁や床をドンドンと叩き、自死するようなそぶりも、何度も見せた。そんな日が、続くようになった。

ただ、そういう姿を見せるのは、わたしの前だけだった。外では、普通の子だったし、どちらかというとおとなしい子だった。だから…なのか、そのような娘の変化を話しても「どこにでもあることよ」ととらえられてしまい、わたしにとっては何の解決にもならなかった。かえって「話さないほうがよいな」という気持ちになった。元夫にも、一度は相談はした気がする。「めんどくせぇ野郎だな(←娘のこと)」いう言葉を覚えているので。何の相談相手にもならない人だった。

一方で、仕事に行こうとしても起き上がれない、動悸がするというような身体的症状も、娘にはあらわれていた。

娘の変化に、わたしはどう対応したらよいのか、まるでわからなかった。なだめてみたり、時には取っ組み合ってみたり、本を読んでみたり、お寺さんに行ってみたり、母子関係のカウンセリングを受けてみたり、毎日が試行錯誤だった。
できるだけ平静を装いながらも、「わたしが一歩対応をまちがえたら、娘はこの世からいなくなってしまうのではないか」という不安をいつも胸に抱えるようになった。娘の感情や態度に敏感になり、精神的にも追い詰められていった。

そのころには、娘にASDやBPDの傾向があることも把握し(BPDについては、本人に言われて知った)、必死に対処法を探した。けれど、出てくるのは「こういう人とは距離を置きましょう」というような内容のアドバイスが多く、当事者やその家族に寄り添うような意見や提言は、そのときは見つけることができなかった。

しばらくして、わたしは突発性難聴を患う。同時期に、不眠症にもなった。どちらも、はっきりした原因はわからないが「ストレスだろう」といわれた。
渦中にいると自覚できない。でも、このころのストレスは、相当だったと思う。体重も、ずいぶん減った。不眠で通っていた漢方のお医者さんと

「体重、減ってますね」
「はい。でもなんとなくの原因はわかっているので。解決までには少し時間がかかりそうですが」

という会話をしたことを覚えている。
娘が精神的に荒れているとか、言えなかったな、このとき。。。

とりあえず通院して難聴と不眠は解消したものの、娘との関係は相変わらずだった。そして、わたしとしては八方ふさがりのような状態だった。どうすればその状況を打破できるのか、わたしに何ができるのか、まったくわからなかった。このままでは、自分がダウンすると感じていた。

そんなとき、BPDと診断された方をご家族に持ち、対処してきたという方の発信に行き着いた。記録を読むと、まったくわたしと同じような経験をされている。その経験から学んだことを伝えるという活動をしている方だった。個人的なカウンセリングも受けているとのことだったので、藁にもすがる思いで、その方に会いに行った。

そのときのアドバイスは、忘れられない。今思えば……なのだが、BPDという診断を受けた人に対処するときの、基本中の基本を教えてくれた。これは、本当に大事なことなのだ。


ただ、そのときは、言葉としては理解できるものの、具体的な行動に落とし込むことが難しいと感じた。ケース・バイ・ケースで対処するしかないので、具体的な行動は自分で模索するしかないとはわかりつつ、「じゃあ、どうしたらよいのだろう」と、悩んだことも事実だ。ただ、それまでの娘に対するわたしの対応が間違っていたことだけは、確かだった。

だから「学ぼう」と、思った。
その方が主催する、BPD家族の勉強会があったので、参加してみようと。しかし、その時点では、席に空きがなかった。が、そのツテで探してみたら、別の勉強会に行き着いた。自宅からは遠い場所だったが、そんなことは言っていられなかった。

「ここに通って、道を見つけていくしかない」
すがる思いで申し込んだのが、2018年の暮れ、2019年の1月から、月に一度のペースで勉強会に通うようになった。これは、今も継続している。

はじめて参加したとき。娘の状況を聞いてくださった先輩家族が「お嬢さま、何歳?」と声をかけてくれた。
「26歳です」と答えると、「うちもまったく同じ。ううん、うちのほうが、もっとすごいかもしれない。年齢も30半ばなのよ」と。
涙があふれそうになった。

参加しているのは、誰もが家族との関係に困難を抱え、それでも道を探ろうとしている人たちだ。細かい状況は違えど、共通する空気がある。

この場では、自分の身に起きている状況を隠さずに話せた。それだけでも大きな救いになることを、このときにはじめて知った。(つづく)

これまでを振り返ってみる その2

都内にて撮影した空

大学生になった娘。
わたしは、小学校、中学校、そして高校の同級生とかかわることのない大学は、新しい人間関係をつくるチャンスだと思っていた。新しい世界を築けると、思っていた。もしかしたら娘も、そう思っていたかもしれない。
けれど、全国各地から年齢も育った環境もさまざまな人間が集まる大学も、娘にとってはなじみにくい世界だったようだ。
それは、娘にBPDやASDの傾向があると気づいた今(正確には、娘が大学を卒業する前後)だからわかることで、当時のわたしは、うまく立ち回れない娘に、イライラしたりしていたのだ。。。
大学の1年次は、朝から晩まで必修の授業も多い。しかも、通学には時間がかかった。朝から晩まで、慣れない環境の中で過ごし、家に帰ってきたら帰ってきたで、勝手に大学生活に期待して、うまくいかないことがあればイライラした母親がいたのでは、気が休まることもなかっただろう……もうこればかりは、本当に「ごめんなさい」と言うしかない。

ちなみに、家庭環境も決してよいとは言えなかった。「悪かった」というほうが正確だ。夫婦間の会話はほぼなく、娘が中学生になるころからは、家庭内別居状態だった。このことは、機会があれば掘り下げたにのだけれど、わたし自身は家庭内別居がよい状態だとは思っていなかったし、早く状況を打開しなければならないとも思っていた。でも、それはわたしだけのことで、相手(結局、離婚したので元夫)は、何も考えていなかった。そういう人だった。
結局、家庭内別居10年ほど、さらに変則的な別居を10年ほど続けた後に、わたしから切り出す形で離婚となった。これはこれで、いろいろ大変だった。そんな中、いちばん理解を示してくれ、力になってくれたのは、娘だった。このことは、感謝しかない。だから、娘への感謝もこめて、いつか、ちゃんと書かなきゃね。

話を戻すと、精神的な負担を重ねていた娘の体調の悪さをわたしが明らかなものとして認識したのは、成人式のときだった。
地元の成人式は、地元の同級生が集まる。小学校、中学校とつらい思いをしてきた娘。「行くことないよ、行かなくたっていいんだよ」と、わたしは思っていたし、娘にも伝えていた。
しかし、娘は行くことを選んだ。その気持ちの奥底に何があったのかを知ることはできないけれど、娘が行くというものを否定的な言葉で止めることはできなかった。みんな、大人になっているだろうか。少しは話に花を咲かせて帰ってくるのだろうか。思いながら、当時の夫が運転する車に乗って会場へ向かう娘を送り出した。かなりの雪が降る日だった。

お迎えには、わたしも同乗していった。どうしてそうなったのかは覚えていない。もしかしたら、娘からSOSがきたのかもしれない。
帰宅してからのことは、なんとなく覚えている。ぐったりとして、寝込んでしまったのだ。。。会場では、誰とも会話をかわすことがなかったようだった。
慣れない着物をきて、大勢が楽しそうに集う中、ひとりぼっちでの式典は、つらかっただろうな…。娘が味わった気持ちがどんなものだったかは、わたしは想像するしかないのだけれど。

そこからの記憶は、いろいろと前後する。

娘が「このままでは、誰かを傷つけてしまいそうだから、精神科に連れていってほしい」と言い出したこと。
突然のことに驚きながら、かかれそうな病院を探し、受診したこと。
それでも、朝起きられない、学校に行けない、無気力などの症状が強くなり、わたし自身がどうすればよいのかわからなくなってしまったこと。
父を通じて大学病院に紹介状をとってもらい、精神科に通院するようになったこと。
定期試験が受けられず、レポートの提出が間に合わず、休学や退学も視野に入ってきたこと。
大学で縁ができた人とも、次々につながりを断ってしまったこと。

それでもどうにか大学は休学せずに卒業し、就職もできた。
でも……精神科への通院は続いていたし、本人の性格が変わったわけでもないので、新たな職場の人間関係でも苦労することとなった。このときは、BPD、ASD傾向がありそうなことは、わたし自身は、認識していた。
とはいえ、精神科の先生から診断がおりたわけでもなく(診断がおりるほど、顕著な症状ではなかったらしい)、どのように対処したらよいのかもわからずにもがいていた。人からみたら、過保護な部分も多かっただろうな。。。

結局、娘は入社早々に「適応障害」の診断で休職し、その翌年には退職している。それからしばらくして、精神科への通院も終わりとなった。これは、勝手にやめたのではなく、主治医の判断によるものだ。

それが、今から7~8年前のこと。
その後、さらなる嵐がやってきたんだった。(つづく)

これまでを振り返ってみる その1

龍さんに見えた空

この機会に、娘とのこれまでを振り返って、自分の気持ちを整理してみようと思い立つ。思い立ったはよいものの、どうなるかはナゾだが、とりあえず書いてみよう。

娘は、子どものころから、こだわりは強かった。つまり、今に至る原型は、あったのだ。あったのだけれど、当時はBPDとかASDとかいう概念や分類はなかったし(あったのかもしれないのだが、少なくとも今のように認知はされていなかった)、「ホント、頑固な子だなあ」というくらいにしかとらえていなかった。そういえば、「がん子」って呼んだりしていたっけ。(遠い目)
と書きつつ、思い出した。小学校3年生だか4年生だかのころ、精神科にかかったことがある。国立の大きな病院で、児童を対象としていた。特に顕著な訴えがあったわけではないのだが、本人に言葉にできない違和感があったようで……。紹介状をとって、出向いた。
そこで実施したひと通りの検査では、特に目立った異常は見られなかった。もっと重度の子どもが多かったから、そういう意味では、まったく普通の子だったと思う。思うけれど、そのときに、例えばASDやBPDの傾向というのは、みてとれなかったのだろうか…と、ふと思うことがある。
うんでも、そこまで望むのは無理だったかもしれないな。それに、国立の病院は研究機関としての役割もあるから、娘のように、大きな障害が出ていない子には、あまり関心がないようだった。暗にそのようなことも言われたし、それで通うのをやめたんだし。


それはさておき、娘が持っていた頑固さや違和感は、学校生活では自分を苦しめる原因となった。そしてわたしは、その娘の状況を、ASDやBPDのような特徴を持つ「個性」というより、「考え方の問題」ととらえていた。考え方を変えていけば、対処できるものだと思っていた。その点は、今も娘に申し訳なかったと思う。

学校生活に話を戻すと、どうしたって日本の小学校、中学校、高校あたりまでは協調性が重視されるし、その協調性も「強いものに巻かれろ」だったり、「なあなあ」だったり。特に女子の世界は、ある意味、残酷だ。家庭で通用する頑固さは、学校では通用しない……。通用しないと、弱気になる。弱気になれば、つけこまれる……という図式が当てはまるかどうかはわからないけれど、小学校高学年のころから娘は、目立つ女子のターゲットとされるようになった。この言葉は本当に嫌いで使いたくないのだけれど、大きな言葉でくくれば「いじめ」だ。

娘は、あまり具体的なことは語らなかったけれど。うまく仲間に入れていない様子は、感じ取れる。そして……最近になって聞かせてくれた当時の様子は、言葉にはしがたい衝撃だった。身を切り裂かれるようなという表現も、大げさではなく。ひとりで、そんな状況を耐えていたのかと思うと、娘を抱きしめたくなると同時に、相手への強い怒りもわいてくる。
本当にわたしは、何もわかっていなかった。わかっていないくせに、どうにかして娘を変えようと、もがいていた。
そしたら、娘だって苦しくなるよね、なって当然だよね。


大学に入学してしばらく経ったころから、娘はそれまでにない体調の変化を訴えるようになった。今に至る体調不良の始まりであり、嵐の幕開けといえば幕開けだった。(つづく)

明日は明日の風が吹く

お濠のきらめき(撮影日は忘れちゃった)

誰かの言葉や態度を真正面から受け止め、怒ったりなじったり、あるいは落ち込んだりふてくされたりすることの多い娘に対して、以前、わたしがよく言っていた言葉がある。

「相手のことは相手のことで、あなたには関係のないこと。自分の問題としてとらえちゃいけない」

「言いたい人には言わせておけばいい。相手を変えることはできない。自分の受け止め方を変えよう」

「そういうことを言うのは、相手自身の問題。相手が弱いからいうのであって、あなたとは何の関係もない」

などなど。

「振り回されるな」「巻き込まれるな」「わかってもらおうとするな」とも、よく言っていたし、今でもつい口をついて出てくる。

 

でもね。これ、逆を返せば、全部、自分への言葉でもあるんだよね。
娘が怒りを爆発させると「どうにかせねば」と、自分を鼓舞し、時には右往左往しつつ向き合ってしまうわたし。どう考えたって、完全に巻き込まれているのだ。

こういうとき、どうしたら冷静に対処できるようになるのだろう。娘が感情をコントロールできるようになることと、わたしが何があっても冷静でいることは、お互いの課題なのかもしれない。

 

BPDやASD(きっとHSPも?)は、脳の機能の問題ともいわれている。脳の働き方を多数派と少数派に分けることができるなら、おそらく少数派のほうに属してしまうのかもしれない。
考えてみれば、視覚、聴覚、もののとらえ方、言葉の把握のしかた、感情のやり取りなど、脳はさまざまなことに関与しているけれど、誰もが同じじゃないんだよね。
わたしたちは、自分の感覚しかわからないし、自分の感じ方しかわからないし、とりあえずそれを基準にして「ほかの人もそうだろう」と考えるけれど、外見が人それぞれで同じ人がふたりといないように、脳だって内臓だって、人それぞれなのかもしれない。外見は目に見えるからわかりやすいけれど、脳や内臓なんて、目には見えないもん。

 

ただ、脳の機能の違いという考え方は、わたしにとっては、ある種の救いでもあった。「親のわたしにできるのだから、子のあなたにもできる」と、かつては思っていたけれど。そうじゃないんだってことを納得するきっかけになったというか。
人それぞれ……とはよく言うけれど、ホント、人それぞれなんだよね。それは、親子であっても。まったく別の人格なんだよね。。。そこね。けっこう思い違いしやすいところかもしれない。

 

もうひとつの救いは、脳の機能に由来するなら、改善の余地はあるんじゃないかと思えたこと。
体の仕組みや脳の構造なんて、小学生か中学生レベルの理科の知識しかないけれど、人体に備わっている不思議な仕組みを思えば、脳だって、その人なりに変わるはず。
すぐには理解できなくても、自分とは違うモノの見方があり、考え方があり、世界があることを知る…ことが何かしらのかたちで脳を刺激すれば、たとえちょっとずつでも変わっていくんじゃないかって。なんの根拠もないけど、楽観的に思っていたりもする。

 

なんてね。
こういうふうに考えられるときというのは、娘が落ち着いているときなのだ。怒り爆発の渦中にいるときは、こうは考えられない。でもだから、「こういうふうに考えている自分もいるんだ」ってことを書き留めておくことは意義あるんじゃないかなと、思ってる。

 

かつて、希死念慮が強かった娘に向き合いながら「わたしが対応を間違えたら、娘は命をたってしまうかもしれない」という恐怖につきまとわれていたことも事実でさ。そのころから比べたら、ずいぶん変わった。

 

明日は明日の風が吹く
どんと大地に足をふんばり、ゆらがない自分でいたい。きっとそれが、娘にとっての安心につながるのかもしれない。
とりとめのないひとり言。

2023年から2024年にかけての覚書

2024年1月1日早朝の空

昨年末から年明けにかけて、娘が荒れた。

単にプンスカ怒るというレベルではなく、とある本いわく「強度が桁外れ」な怒りが噴出した。大噴火、大爆発。

BPDあるいはASD(もしくはHSP)という個性を持つ人によく見られる状況(症状といったほうがよいのか?)で、だから、家族や身内に、その個性を持つ人がいる場合は、その様子がわかってもらえるはず。逆に、そうでない場合は、絶対にわかってもらえない。なぜならば、大噴火、大爆発を見せるのは、家族や身内でも特定の人に限定されるからだ。外では絶対に見せない顔だし(決して否定的に言うのではなく事実として)、娘に限っていえば、その激しさを知っているのは、現在は、わたしを含めてふたりだけだ。

 

このような症状を見せるようになったのは、2017年ごろからだから、かれこれ7年になるんだわ。当時、その怒りをぶつけられ、浴びるのは、わたしひとりだった。そして、その怒りはわたし(わたしの言動やあり方)に向いていた。

罵倒され、モノを投げつけられ、どう対処してよいのかわからず、時には取っ組み合いのようなこともしながらの試行錯誤の日々。神社のお祓いにも、お寺さんにも出向いたよなあ(遠い目)。もう八方ふさがりで、「このままでは、自分が精神的にダウンする」と追い詰められてたどり着いたのが、そのような家族を持つ人の勉強会だった。

2018年の末にその会に参加することを決め、2019年の1月から、月に1度、通うようになった。すがる思いだった。そのときから数えると、この1月で5年目に入るんだね…。

 

5年の変化は、それなりにあった。

まず、わたし自身がどんなふうに娘に向き合えばよいのかを学び、少しずつ身につけていった。もちろん、一朝一夕にとはいかず、3歩進んで2歩さがり、浮いては沈みの繰り返し。その間にも、何度も大爆発があり、険悪にもなり……それでも、振り返れば、自分自身が変わったことは自覚できる。それにつれて…なのか、少しずつ娘も変わっていった。

とはいえ、BPD、ASDHSPの特徴とされる中のいくつかを持ってはいるから、ふとした刺激(接した人の言葉だったり態度だったり)で、感情は桁外れの強度で爆発する。家族の勉強会では、よく「地雷を踏む」というたとえが使われる、そんな感じ。

 

そんなふうに過ごしてきた2023年暮れから2024年にかけて、娘は桁外れの強度の大爆発をした。そのきっかけとなった出来事は、たとえば自分が受けたとしても気持ちのよい出来事ではなかっとはいえる。だけれども、きっと多くの人は「あんなやつの言うこと、関係ない」「何も知らないくせに、よく言うよ」「ああ、やだやだ」くらいのうっぷん晴らしでやり過ごせるのだ。

しかし、娘は違う。相手の言葉を自分自身に対する全否定ととらえる。認めてくれる人の存在など眼中になくなる。思考が極端なのだ。1か100か、黒か白かしか、ない。たったひとつの「黒」を全体としてとらえ、自分の敵であるとみなし、暴れ、罵詈雑言を連ねる。その罵詈雑言は、本人に向けられるのではない。浴びるのは、わたしだ。しかも、言葉はループする。同じことを何度も何度も繰り返し、ぶつけてくる。これね、けっこうしんどいよ。「自分のことじゃない」とわかっていても、ひどい言葉を浴び続けると、どんどん気持ちが沈んでくる。でもね。娘の側からすると「吐き出さなければ、死ぬしかない」になるんだよね…。死ぬって、自分の感情を押し殺すというような感じかな。10年ほど前かな、感情をおもてに出さず、ウツのようになったこともあった娘。そのことを思うと、感情を出すことは、大事なことでもある。要は、どのように自分の感情に対処するかってことになるのだけれど。

年末からのこの状況は、少し尾を引いた。ここしばらくは、荒れてももう少し冷静に対応できるようになってきたのだけれど、ちょっと引きずった。やはり、そういうこともあるんだな…というのが、今の正直な気持ち。

ただ、自分自身の反省点もあるので、そのことは記しておきたいなと思う。

ひとつは、娘の感情に巻き込まれてしまうこと。どうにかしなきゃ、冷静になってもらわなきゃと思うあまり、余計なことを口走ったり、娘の神経を逆なでしてしまったりする。これ、頭ではわかっているのに。「説明したら、わかってくれるんじゃないか、冷静になれるんじゃないか」って思ってしまうのだ。けれど、桁外れに怒っているときには、どんな言葉も届かない。言葉を届ける前に、何はともあれ傷ついた娘の心に寄り添わなければならないのだ。

娘の態度の中から理解できることを見つける→その気持に寄り添う(承認)

ここを焦ってはならないということを、新年早々再認識。何があっても、どんとかまえていられるようになるには、まだまだ修行が必要だな。でも、あきらめたくないんだな。だって、娘もちゃんと変わってはきているんだもの。

桁外れの怒りは、娘にとっても苦しい。そこに目を向けていこう…という覚書。